日本における「プロ独裁」樹立の展望

                   松江澄

(労働者党全国協議会議長)

労働運動研究 197610

これは八月二十三日東京で行なわれた「シンポジゥム」の基調報告を、記録にもとついて整理し書き改めたものである。

はじめに

 

  現在提起されている「プロレタリア独裁」概念の問題は、大きく広い展望からいえば、革命的条件の成熟そのものが突き出している問題である。今日に則していえば、「ロッキード事件」はその内部矛盾と亀裂の深さの点では支配階級にとって戦後かつてない危機でありながら、それを労働者階級を中心とした人民の闘いの力でつき崩し得ない、いわば「受動的」な危機にとどめている。「プロレタリア独裁」の問題は、現在ますます少数独占の手に集中される支配が困難と危機に箱っているにもかかわらず、これを崩壊に導くことのできない状況のもとで、労働者階級の革命的展望に対する確信の問題として提起されている。それはまた従って革命的展望を明らかにして闘う労働者階級の統一の問題でもある。

  第二次大戦直後、東ヨーロッパ革命、中国革命を始めとして革命的危機が発展するなかで、ヨーロッパにおいて人民民主主義革命論と関連して「プロレタリア独裁」概念が問題になったことがある。しかしこれはやがて「冷戦」の時期に入るとともに遠のいた。そうして今、資本主義の全般的危機が一層深化し発達した資本主義国における矛盾が集積し、労働者・人民の闘いが新たな革命約展望をきりひらこうとしている状況のもとで、「プロレタリア独裁」の問題が再び提起されている。その意味で「プロレタリァ独裁」の問題は革命的危機が発展する情勢と条件が、それを闘う労働者階級に提出している歴史的な課題であるということができる。

それでは今日、日本における革命的諸党派と戦闘的労働者が「プロレタリア独裁」の思想で武装して闘っているであろうか。われわれを含めて必ずしもこの思想を貫いて闘っているとは断言できないのではなかろうか。従って「プロレタリァ独裁」の問題は、ただ日本共産党批判の問題としてすますことはできない。それはまたわれわれ自らの問題でもある。

「プロ独裁」概念の放棄に対する批判

(1)その基本的な方法論について

まず第一に、「プロレタリァ独裁」概念放棄の傾向は、あれこれの党の恣意的な選択の問題としてだけではなく、発達した資本主義国で現実に進行している客観的な諸過程の反映でもある。それは確かにいくつかの国の共産党の主体的な条件から生れたものではあるが、その客観的な土台が現に存在しているからでもある。従って「放棄」を生み出した情勢と条件およびその思想的な背景の分析が一層重要となる。

また従って第二に、「プロレタリア独裁」概念の放棄に対する批判は単に理念的理論的批判にとどまるべきではなく、「プロレタリァ独裁」への展望を明らかにして、それを追求する実践的な闘いで客観的諸過程 を変革することによって、はじめてその批判を完成することができる。

その意味では「プロレタリア独裁」概念放棄の批判は、けっして一時期の問題ではなく、長期にわたる批判闘争であり、実践的な批判闘争であり 「プロレダリア独裁」をめざす労働者階級の闘いそれ自体に外ならない。

(2)「プロ独裁」概念放棄の内容とその主要な傾向

今日多少とも「プロレタリア独裁」概念について異った立場をとっているいくつかの共産党がある。フランス、スペイン、ポルトガル、日本などがそれである。しかしそれはすべて全く同じようなものだというわけにはゆかない。そこにはそれぞれの党の歴史的主体的な条件の相異がある。その揚合なにより重要なことは、それぞれの国における革命闘争の歴史的な伝統である。その点でヨーロッパにおける諸党と、日本共産党の場合を一律に論じることは適切ではない。しかしどんな揚合にも共通して重要なことは、「プロレタリア独裁」概念放棄の理由とされている客観的歴史的諸条件の分析追求と「放棄」とを厳密に区別することである。何故ならば、発展する客観的歴史的諸条件のもとで「プロレタリア独裁」の創造的な形態を追求することが、マルクス主義の発展にとっての歴史的な課題であるからである。

われわれはこの場合、最近の党大会でその「放棄」を決定したフランス共産党と日本共産党に限定して取り上げることとする。

@フランス共産党について

われわれは、マルシェ報告で提起されている新しい歴史的な諸条件についていえば、マルクス主義にとって重要な分析の対象であると考えている。しかしそれを理由に、「『プロレタリア独裁』の概念は党の遂行すべき任務と何等の共通性はない」(マルシェ)というフランス共産党の見解には断固反対する。われわれはフランス共産党を中心にした研究的労作「国家独占資本主義論」等の成果を積極的に評価しながらも「プロレタリア独裁」から「独裁」を分離してファシズム等特定の政治形態に矮小化し、「プロレタリァ独裁」から"プロレタリアート"を分離してそれ自体重要な課題である労働者、勤労者の搾取、収奪形態とその構成、範囲の変化の追求を、"プロレタリアート"の語義問題に還元することで、「プロレタリア独裁」概念を放棄したフランス共産党をきびしく批判する。それはフランス人民連合と「社共共同政府綱領」という現実的、な政治課題にもとつく大衆獲得――とくに選挙を通じての――のための戦術的放棄と思われる。しかし今までの経験が示すように、こうした戦術はやがて思想的退廃をもたらし、戦術のための政治的マヌーバーはやがて「プロレタリア独裁」の完全な放棄にいたる深い危険を含んでいるからである。

A日本共産党について

日本共産党の場合は、フランス共産党と比べてもっと端的であり直裁である。それは次の二点につきる。

その第一は、マルクス主義が初めて明らかにすることのできた歴史的、革命的「独裁」の概念を一般的な政治権力=政治支配に解消しつつ、国家=階級「独裁」の概念そのものを否定し、とりわけ日本におけるブルジョア独裁を否定していることである。それはすでに主張されていた「法治国家論」「三権分立論」によるブルジョア独裁のなしくずし否認の最終的な仕上げだということができる。

第二には、きり離すことができないマルクス・エンゲルスとレーニンを分離し、マルクス・エンゲルスを偽造歪曲し、レーニンを否定していることである。彼等はマルクス主義の歴史的な方法を放棄し、便宜主義的な解釈論によって革命論を自分勝手に定式化している。彼等によればマルクス・エンゲルスが強調しているのは、多数者による旧支配機構の平和的合法的民主的改造による変革であり、これこそ日本を含む先進国革命の道であると断定し、レーニンに導かれたロシァ革命は旧支配機構の粉砕によって成就する少数派による暴力革命で、専制政治の下でのみ有効な革命の道であるとして、「プロレタリア独裁」を特殊ロシア的条件と一緒に洗い流している。

とくに不破等が「放棄」と引き替えに強調しているのは、普通選挙にもとづく「民主的共和制」であるが、それは二重の意昧でまちがっている。その一つは厚類無恥なマルクス・エンゲルスの偽造歪曲である。彼はマルクス・エンゲルスが「民主的共和制」を「プロレタリア独裁」の「でき合いの形態」であり「特有の形態」だといっていると、「鬼の首」でも取ったようにふりかざしている。しかしこれは完全なすり替えである。確かにマルクスもエンゲルスも普通選挙にもとつく「民主的共和制」は「プロレタリア独裁」の「でき合い」で「特有の」形態であるといったが、それは「民主的共和制」がブルジョア独裁の最後の形態としてーちょうど「立憲君主制」が封建的な支配階級と近代ブルジョアジーとが決着をつける「でき合い」の舞台であったと同じようにーブルジョアジーとプロレタリアートが決着をつける「でき合い」で「特有の」形態だといったのである。マルクスもエンゲルスも普通選挙権が労働者階級の成熟度を示す温度計で、それ以外のものではないと指摘しながら、それが沸騰点に達したとき多数を争う舞台から権力を争う革命の舞台に移行するだろうと断言し、「民主共和制の千年王国を夢見る俗流民主主義者」を完膚なきまでに批判した。偽造と歪曲の名人=不破にとっては「あばたもえくば」に見えるらしい。

さらにまちがっているのは、歴史的条件の発展に対する無知と否認である。議会の位置はそれぞれの国の特有な諸袋件によって異なるばかりでなく、歴史的な時代の変化と発展によっても異なる。たとえエンゲルスが、その晩年議会と選挙に新たな望みを託したとしても、今日とは時代が異っている。不破は資本主義の自由競争時代において「ある程度歴吏的に進歩的な役割をなしとげた」(コミンテルン)議会が、帝国主義時代に突入した後には「虚偽と欺購とオシャベリの道具の一つ」(同前)に転化したことを無視し、その帝国主義的な議会が第二次大戦後人民の闘いの圧力で持つようになった新しい、しかし限度のある役割をマルクス・エンゲルスの言葉でたたえている。こうして彼等は、いつわりの文献でおおいかくしながら、完全に「プロレタリア独裁」を放棄したばかりでなく、マルクス・レーニン主義そのものも完全に放棄した。

B共通な諸傾向について

またフランス共産党と日本共産党が「放棄」の理由としている背景には、共通の傾向と特長がある。それは"ソ連モデル"の否定と社会主義への"独自な"道の強調であり"民主主義・自由"の尊重と選挙による議会内多数派政府を通ずる革命であり、また労働者、勤労者の「多数化」による"多数者革命"である。しかしこれらは別のものではない。社会主義への"独自"な道は、愛国主義的ナショナリズムあるいはブルジョア民族主義として、議会と選挙を通じる権力移行論は階級を一票によるマス大衆への解体として、また"多数者革命論"はプロレタリア・ヘゲモニーの勤労者一般への解消として、結局すべては算術的多数派=政治的多数派、国民的多数派=革命的多数派による"平和的合法革命"に集約される。それはブルジョァ独裁と闘う「プロレタリァ独裁」の思想を放棄することと別なものではない。

(3) 「プロ独裁」概念の放棄を生み出す惰勢と条件および思想的傾向について

社会の歴史的な発展過程は、マルクス・レーニン主義を一層ゆたかにするために、絶えず追求しなければならない新しい課題と、その新しさに溺れて原則を放棄する危険とを常に一包にして提出する。その意味で歴史は両匁のやいばである。

「プロレタリア独裁」概念の放棄を生み出す条件の第一は、資本主義の発展それ自体かもたらすものである。それは社会主義、国際労働運動、民族解放闘争の世界的な発展による資本主義の危機の激化と深化がもたらす、体制の危機を救済するためのブルジョア独裁の形態変化と支配、抑圧のための機能の多様化である。

周知のように一定の土台は一定の上部構造をつくり出す。レーニンが指摘するように「自由競争には民主主義が、独占には政治反動が照応する」。しかし今日の現代帝国主義=戦後国家独占資本主義の上部構造を、戦前と同じように単に政治反動とだけ定式化することで正確な分析といえるだろうか。現代帝国主義は、世界的な力関係の変化のもとで一層脆弱になった彼等の支配体制を維持、補強するため、誰にでもすぐ分る極端な政治反動ばかりでなく、いつでも政治反動に転化することのできる「民主主義」的な管理と統合をその武器としている。それは国家が再生産に介入することで蓄積を補強し、資本主義の「延命」を模索する国家独占資本主義に照応している。彼等はかつてブルジョアジーが投げすて、従って労働者階級が拾い上げることによって、その周囲に人民を結集することのできた「民主主義」の旗を、再び拾い上げて自らの武器とすることで労働者と人民の再統合を進めている。そうしてかつては「オシャベリ小屋」にすぎなかった議会が、戦後の労働者・人民の圧力によって、その闘いの一定の反映を余儀なくされるや否や、噴出する大衆闘争を鎮静させて危機を回避する体制安定装置としての新しい役割を振り当てている。戦後三〇年の諸経験は、一定の段階までは闘いの武器であった議会が、最後には常に闘争を議会主義的に総括集約して体制を安泰に導く役割を果してきたことを明らかにしている。こうして議会は、支配階級にとって多少の危険はあったとしても、常に「民主主義」的管理と統合の最良の武器となっている。こうした状況は、独占資本主義の発展がつくり出す労働者と人民の意識と思想の変容に対応している。

それはとくに技術革新と近代化がもたらす思想と意識の新たな諸条件である。技術革新による近代化は、その最も進んだところでは機械が人間にとって替り、労働の単純、単調化と不具化、無内容化をもたらすが、そうでない場合にも労働の性質と内容に重大な変化をもたらしている。

すなわち、かつては素朴ではあっても自己の労働の全体像を直接認識することができたが、今日では機械化近代化の発展によってそれぞれの労働を分離切断し、直接感性的に把握できる範囲を個々の労働の周囲の極めて小範囲に限定している。ここからそれぞれの活動範囲が自然的には限定され、範囲を超えた領域については他に委託して期待するという受動的な関係が一層進行するが、それは流通、消費の面についても変りはない。ボタン一つで何でも出てくるが、それをつくる人々とは全く無縁の存在で、ただ供与する者との一層冷たい取引き関係が生れるだけとなるが、それは労働組合でさえ例外としない。大企業労働組合になるほど、賃金の配分を受取る組合員と請負う執行部とは、血のかよった連帯ではなく「白けた」取引きの関係で割り切られる。そこでは、任せて配分を期待する者と任されて分配を供与する者との委託と分配の「民主主義」がブルジョァ的交換と取引きの形態として、自己本位のマイ・ホーム主義を生み出している。政治的な選択についていえば、一票との交換で政治エリートに依託された期待は、「エリート代行主義」のもとで上からの「民主主義」的管理と統合に対応している。

第二には、こうした資本主義的統合の進行とともに、その対極である社会主義の展望についての問題である。国際共産主義運動の不統一、中ソ対立をはじめとした社会主義体制内部の対立と、ソ連等現実の社会主義的民主主義に対する批判は、労働者.人民の革命的な展望に対する確信を動揺させている。それは社会主義内部の対立と限界を、世界革命の歴史的な発展過程における矛盾としてとらえることができず、生産力の発展と生産関係の矛盾から発生する過渡的諸問題を、超歴史的な対比による市民主義的な批判におきかえるところから生れている。それはまた、歴史的民族的条件による革命の発展形態の多様性というレーニン主義の原則を、全く反対にプロレタリア国際主義と対立させる〃独自な"社会主義への道とも結びついている。

日本共産党の「プロレタリア独裁」概念の放棄は、こうした一般的条件に加えて特殊な歴史的条件をもっている。このたびの「放棄」は、ここ十年来の日共路線の総括であり、その歴史的な決算である。「ニつの敵」論と二段階革命論、四・一七スト破りにはじまるその独善主義と分裂主義、反ソからやがて反ソ反中に至る民族主義的「自主独立論」、さらには「教師聖職論」「自治体労働者奉仕者論」「部落解放国民融合論」から「法治国家論」「三権分立論」に至るまでの諸路線が必然的にゆきついたものが、今回の「放棄」であった。

それは今あらためて「放棄」が始まったのではなく、すでに始まっていた「放棄」の総仕上げでもあった。

またこの「放棄」は、戦前のいわゆる「スパイ・リンチ事件」から「五〇年問題」「第七回大会」を経て今日に至るまで一貫している宮本顕治の無謬主義、常に自己を正当化、絶対化するその思想と別なものではない。そうしてそれは、"理論"をいつでもどこでも切り売りする"テクノクラート"不破・上田との取引きによるゆ着によって完成した。

日本における「プロ独裁」の展望と闘いについて

(1)「プロ独裁」を追求する基本的な方法論について

資本主義から共産主義への政治的過渡期に対応する国家としての「プロレタリァ独裁」の歴史的必然性、自らを止揚することによって人間を解放するプロレタリアートの「独裁」の歴史的不可避性、また死滅しつつある資本主義と、生れ出ようとする共産主義との闘いが必要とするその任務と機能、すなわち打倒はされたがまだ絶滅されていない資本主義に対する抑圧と、生れ出ようとしているがまだ生れ出ていない共産主義的労働を組織する指導性との「プロレタリア独裁」が持つ二つの基本的な任務、および「パリ・コムミューン」にはじまり歴史的民族的条件によって発展、変化する「プロレタリァ独裁」への移行形態とその実現形態の多様性は、体系的な一貫性をもっている。われわれはこうしたプロレタリア独裁」の歴史的必然性、その任務と機能および移行形態と実現形態の多様性をけっして別々に解体分離することなく一貫して追求する立場から、日本における「プロレタリア独裁」をめざす闘いは次の三つの基本的な方法論を必要とすると考える。

その第一は、「独裁」を上部構造(国家・政治形態)としてだけとらえるのではなく、土台から上部構造まで、生産形態から国家・政治形態に至るまでの"誰が誰を〃の支配として追求することであり、第二には「プロレタリア独裁」の闘いを現実に支配している「ブルジョア独裁」

との闘争として、その歴史的必然性にもとつく「独裁」の交替の闘いとして追求することである。また第三には、「プロレタリア独裁」をプロレタリアートが同盟軍を組織、指導するプロレタリア・ヘゲモニーの国家権力への転化の形態として追求することである。こうして上から下までのブルジョア独裁と闘いつつ、下から上までのプロレタリア・ヘゲモニーを打ちたてる闘いによってこそ「プロレタリア独裁」を樹立することができる。それは発達した資本主義国における独占の職場支配から、その国家権力に至るまでの一貫した闘いである。

(2)日本におけるブルジョア独裁の分析と追求

「プロレタリア独裁」への闘いを追求するためには、現在日本におけるブルジョア独裁の階級的な分析が是非とも必要となる。今日まで経済と政治およびその他の領域における分析については、すでに多くの研究と追求が行なわれているが、当面とくに闘争との関連で次の点に見逸がしてはならない問題である。

その一つは、国家独占資本主義においては、労働組合の賃金闘争に至るまで独占の支配が貫徹しているということである。長年つづいている春闘決着方式は、独占の根幹であり牙城である鉄鋼部門の「一発回答」を基準として、それを前後するベースアップ率は独占のガイドラインに押え込まれ、本来労働者の闘う三権―団交権、ストライキ権、妥結権――は何れも中央少数幹部に集約され、職場における労働者は賃金闘争からさえ疎外されている。労働者の最も身近な要求であり闘いである賃金とその闘争まで、基本的には国家独占資本主義が決定している。そうして社会党、共産党、また総評もストライキとの取引きで若干の上積みを補足しているにすぎない。

また現代政治構造における独占ブルジョアジーの「独裁」は、今問題になっている「ロッキード事件」とその危機の収拾の中でこそ最も集中的にあらわれている。彼等は事件のはじめから「終り」まで「独裁」を貫徹している。「ロッキード事件」に固有の腐敗と腐朽な表現であるばかりでなく、日米、日韓の汚職と腐敗の集中点でもある。それはまたアジアにおける社会主義と帝国主義、革命と反革命の新たな対決の焦点=朝鮮半島にネライを定めた日米帝国主義同盟のアジア極東軍事戦略と、日本帝国主義による韓国経済侵略との二重構造の矛盾の集中点でもある。彼等は戦後かつてないその内部的危機を収拾するに当って、事件を「運輸航空汚職」に限定して「田中」「丸紅」「全日空」などのアウトサイダーを切り捨て、独占の本命に傷がつかないよう特別の配慮を行っている。彼等はまた巧みに議会「民主主義」と検察「民主主義」を運用して「独裁」のカクレミノとしながら、新しい攻撃の準備を立て直しているが、野党とくに日共は「法治国家論」「三権分立論」で「左」からそれを支える役割を担っている。

また独占ブルジョアジーは、思想、文化の領域でも巧みにその支配を貫敵しているが、とくにその中心でもある教育の分野では闘う教育労働者に新たな攻撃をしかけている。すなわち「審議会答申」から「五段階賃金制」「人確法」を経て今すすめられようとしている「任命主任制」は、戦後一貫して彼等が追求してきた独占資本主義の発展に見合う実用主義教育と体制維持のための復古主義教育とを、労働者の闘いから擁護するための防壁に外ならない。しかしここでもまた日共は、こうした教育危機を学校「民主主義」の危機にすり替え「父母国民のための落ちこぼれのない教育、校長を含めた民主的主任制」など、教育における「民主的」独裁を守るためにヤッキになっている。

(3)「プロ独裁」への展望とその根拠について

独占資本主義の発展がもたらす技術革新と近代化は、すでに指摘したように現象的にはますます労働者を労働から切り離し、その一人一人を分断することによって「民主主義」的な統合を可能にしているが、同時にその反面、すべての生産をますます緊密に社会関係の総体に結びつけるとともに、生産における労働者、技術労働者の占める位置をますます決定的なものとし、資本による支配のための管理体系を一層無用の長物にさせている。それは独占資本主義の発展が不可避に生み出すその否定的な対立物である。この客観的な必然性を主体的な実践の闘いで追求することによってこそ、労働者階級は真に生産と職場の"主人公"=国と政治の"主人公"として自己を変革し、「プロレタリア独裁」を打ちたてることができる。それは名実ともに、生産から国家権力に至るまで労働者階級が"主人公"になるための闘いである。

そうであるからこそ、支配階級はこの危機を回避するための偽制として、「労資対等」の名のもとに、協調幹部と協力して経営と生産への「労働者参加」を急ぎ、また「人民主権」の名のもとに議会政党を通じての「政治参加」で危機を収拾しようとしている。従って「プロレタリア独裁」"真の"主人公"をめざす闘いは、こうして組織されるいつわりの"主人公"意識、思想とのきびしい思想闘争でもある。

生産点における労働者ヘゲモニーを打ちたてる闘いは、「プロレタリア独裁」の基本形態であり"細胞"であるーちょうど商品生産が資本主義の基本形態であり"細胞"であるように。従って資本の一方的な管理を拒否する職場の大衆闘争に依拠しつつ、生産における労働者の指導権をめざす闘いこそ不断に追求すべき中心的な謀題である。それはまた団交権、ストライキ権を少数幹部の手から職捌の労働者自身の手に奪還する闘いと別なものではない。こうした生産における労働者ヘゲモニーのための闘いは、個々の職揚での生産が、その一環である企業と産業の生産体系の追求を通じて真の階級的な連帯の追求、また生産に反映される社会的な諸関係―生産物の流通を通じての消費者との関係―の追求を通じて、同盟軍である諸階層との共同闘争の追求に発展する契機を内包している。そこにこそ「プロレタリァ独裁」の"細胞"としての生産点闘争の重要な意義がある。それは戦後発展した「生産管理闘争」が資本のサボタージュと明日の生活から生れたものであるのとは全く反対に、発展する生産力を資本主義的な生産関係の桎梏から解放して、輝しい未来を闘いとる力として生れる。

これはすでに労働力の売買によって、賃金とそのための権利を闘う労働組合闘争の域を超えて、労働そのもののあり方を追求する変革の闘いであり、従ってそれはまた職場における労働者階級の政治的な指導部としての党を創出する闘いと切り離すことはできない。

(4)「プロ独裁」の闘いと諸問題

生産における労働者ヘゲモニーの闘いは、国家権力との闘いと別なものであってはならない。もし生産におけるヘゲモニーの闘いを、革命的な過渡期にのみ成立する「二重権力」の「日常化」として政治権力との闘いと分離するならば、権力を爆小化あるいは抽象化することとなって小ブルジョア的観念論に陥る。またこうした生産における労働者ヘゲモニーの闘いを欠いた国家権力との闘いは、「プロレタリア独裁」を労働者による生産の自覚的管理から切り離して、社会主義革命を生産手段の国有化に押しとどめ、上から下までのプロレタリア民主主義を放棄することになる。従って「プロレタリア独裁」をめざす革命的展望は、生産管理、工場占拠をともなう政治ゼネストと政治的デモストレーション、労働者・人民による社会的諸機能の管理をともなう大衆行動の発展によって旧権力を打倒し、ひきつづく銀行・重要産業の国有化と労働者管理、生産・流通・分配の総過程および行政的諸機構の労働者・人民による管理の闘いによってのみ切り拓かれる。

また「プロレタリア独裁」は同盟軍を組織する労働者のヘゲモニーによってこそ打ちたてられる。中間層との同盟は、社会主義的労働を組織する労働者階級の指導性の萌芽形態でもある。同盟は同盟軍である中間層を利己主義的な目的のために一時的に利用したり、迎合したりすることによっては、けっして組織されない。何より重要なことは、動揺する中間層をしっかりと味方につけることのできる労働者階級の闘う力と、その要求を共に闘う誠実な実践と政治的な力量である。反独占統一戦線は議会主義的な政党の妥協と取引きによってつくられる政治協定に解消されてはならない。統一戦線とは闘う統一行動そのものであり、重要なことは労働者の階級的な統一を中心とした同盟諸階層との闘う統一である。闘いで結ばれた反独占の闘争連合によってこそ統一戦線は革命のカとなる。

この場合議会の占める位置は重要である。それはその時々の闘争と力関係を反映しつつ、時として変革への重要な契機となることもあるが、革命的変革を決定する唯一の力は労働者階級の闘いである。議会の利用と革命的な議席の利用は別の問題である。個々の局面における議会の占める位置の重要さにもかかわらず、全局面を貫ぬく主要な移行形態は議会における闘いではなく、議会における闘いを決定する労働者・人民の革命的大衆行動である。この闘いに従属してのみ議会は有効な道具となる。議会が「プロレタリア独裁」の「でき合い」の形態になるのではなく、「プロレタリァ独裁」が「でき合い」の議会を壊し、つくり変えるのである。

「プロレタリァ独裁」をめざして闘う過程で、武装装置を中心にした反革命暴力による攻撃は絶えず準備される。しかし反革命暴力の中心である軍隊・警察は、支配階級と切り離された独自の存在ではない。それは時として独自な行動に出ることがあったとしても、基本的にはブルジョア独裁の武器である。従って内戦をともなわない権力の移行を追求するためには、大衆的な革命行動を中心としながら、とくに軍隊・警察の階級的な基盤である中間層を労働者階級の側に固く組織するとともに、軍隊と警察の中のファッショ分子を孤立化させて、その内部亀裂を拡大するための独自な工作が必要となる。内戦をともなわない権力の移行を追求する場合でも、部分的な武力対立は避けられない。しかし重要なことは、個々の局面での部分的武力対立にもかかわらず、全局面をつらぬく主要な闘争形態はけっして武力闘争ではなく、革命的な大衆行動であるということである。

チリ、ポルトガル等、今日までの歴史的諸経験は、反革命が常に国際的な独占ブルジョアジーによってたくらまれ、しくまれ、支援されていることを示している。今日ではどの一国における革命的変革も、世界的な変革への端緒となることで、国際的な独占ブルジョアジーの反撃を呼びおこしている。従って反革命暴力を制圧しつつ、「プロレタリァ独裁」を樹立するためには、プロレタリア国際主義の闘う連帯こそ最も重要である

おわりに

今まで提起した「プロレタリア独裁」をめざす闘いにとって、何より必要なことは革命的な闘争の司令部であり、労働者階級の指導部としての労働者階級の党である。生産における労働者階級のヘゲモニーの闘いから、反革命暴力の粉砕に至るまで労働者階級は自らの指導部を創り出すことによってのみ「プロレタリァ独裁」を闘いとることができる。それはまた「プロレタリア独裁」の思想で武装しながら「プロレタリア独裁」をめざして徹底的に追求する闘いのなかでこそ創り出すことができる。

今日、日本における共産主義運動は多くの諸党派、諸集団に分裂している。しかし最初に提起したように「プロレタリア独裁」の問題は単に日共批判だけの問題ではなく、正にわれわれ自身の問題でもある。日本における共産主義運動が「プロレタリア独裁」の共通な思想で結ばれ、労働者階級とともに「プロレタリア独裁」をめざして闘うならば、そこには必ず原則的な統一があり、前衛党の再建は必ず実現されるに違いない。それは現実の闘いが要求し、労働者階級が要求しているものである。一つ一つの課題にもとつく共同闘争と、思想的理論的な交流と統一によってこそ、革命的な戦線は統一され前衛党は再建されるであろう。
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